田北暁  AKIRA TAKITA

Pho_takita

1953年、長崎県生まれ。
1974年、国内大手輸送機メーカー入社。生産管理部にて10年近く生産管理業務を経験。
1983年に関連エンジニアリング会社に転向し、中小企業向生産管理システムパッケージを開発。
1992年に株式会社アミック設立、代表取締役就任。
製造業のオープンシステムでの、統合システム構築のためのコンサルティングおよび、システムインテグレーターとしての提案~開発~導入を行っている。
自社製品のハイブリット型統合生産管理システム「AMMICシリーズ」を発表、薬品・食品・化学品製造業を中心に現在でも高い評価を受け続けている。

趣味は音楽(ギター演奏)、ドライブ(車・バイク)。

   2016年09月28日 音の記憶

 ずいぶん昔の話になりますが、私は、学生時代には時間ができると街中のJAZZ喫茶に入り浸っていました。
JAZZを聞きながら、大音量の空間でも心地よく長居できたものです。レコードで聞く音は、生々しく新鮮でした。
当時軽音楽部のマネージャーをしていた私は学業よりバンド活動を優先していました。朝、昼、晩と授業の合間にも楽器を弾いていましたが、当時は音質よりも音量を重視していたかもしれません。バンドではロック中心の曲を演奏していましたが自宅ではジャズのソロ曲を練習していました。
学生時代に過ごした街は佐世保で、米軍基地のおかげでラジオ放送のFENを聞きながらテスト勉強をしていました。大きなラジカセ(死語ですね)で聞くFENの音楽も心地良かったことを覚えています。

 就職して浜松に住むことになった私は、先輩の誘いでジャズのライブハウスで演奏させてもらう機会を得ました。
東京から来たプロのジャズギタリストがリーダーのバンドが素晴らしい演奏をした後で、2曲弾かせてもらいました。私のソロアドリブ部分にベース奏者が入ってきて、動揺した私は途中で演奏を止めてしまう失態を演じましたが、コントラバスの音が重なったときの心地よさは忘れられません。

 その時の演奏がきっかけで、浜松で活動しているプロの演奏家と知り合うことができ、いまでも交流が続いています。
その中の一人が、使わないからと言って、古いギターアンプを無償で譲ってくれました。それは、彼が大阪の吉本興業で働いているときに、引退する先輩からいただいたものでした。1965年製のFender社のDeluxeReverbというアンプです。
あとで知りましたがこのモデルはギターアンプのなかでも最も人気のある機種で現在でも高額で取引されているようです。音量は小さいのですがとても暖かい甘い音が出るアンプで、自宅で弾くアンプとしてはとても気に入っていました。
それと同時に私には吉本興業でお笑い目的でバンド演奏していた芸人の方たちでも最高の音質を求めていたことが職業人としてのこだわりの強さを実感させてくれました。

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http://fenderguru.com/amps/deluxe-reverb/より

 その後、浜松のフュージョンバンドに誘われ活動を開始しましたが、プロとして活動しているほかのパートのメンバーのレベルに追いつくのが大変でしたし、音量で負けているような気がして、当時月給の3倍近い金額の新品のアンプを購入してしまいました。そして音量の出ない先のFenderのアンプをただ同然で売り払ってしまいました。新しく購入したものは、ロックやフュージョン系の音楽にはとても相性のいいアンプでしたが個人でJAZZ を弾くには辛い音質です。
その後、売り払ったアンプのことが忘れられずに、いつか当時の音が出る個体に巡り合えないかと探していましたが、なかなか出会えませんでした。またそれがとても難しいこともわかりました。真空管と電解コンデンサーには寿命があり、古くなって音質がわるくなってしまっていることが理由です。
当時の真空管やコンデンサーと同等の新品はもう手に入らないというのが現実です。その当時の音の記憶をもっている方も少なくなり、アンプ修理をしてくれる業者さんにお願いしても、同じ音質に近づけることが難しいのが現実です。

 好みの音質の楽器は長く弾き続けられます、そしてそれが演奏のセンスを上げていきます。練習時間が苦になりません。
子供に楽器を学ばせたい親御さんに強く助言したいことは、なるべく早い時期に、良い楽器を見つける旅に出かけることです。

 尚、皆さんが耳にしているJPOPや演歌、ロックのギターの音は先のfenderのアンプの開発者であるLeo Fenderさんが発明したトーン回路をベースにしています。若いミュージシャンたちが使っているアンプのほとんどはその子孫だと言えます。
当時、50年代60年代も多くのアンプメーカーがありましたが、彼が作ったアンプは他社を品質、機能の面でも圧倒していたと思います。それは、彼が若いころから多くのアンプの修理をしてきた経験があり、その過程で、多くのミュージシャンの声を真摯に聞いてきた結果だと思いました。
現代のプロミュージシャンのギターアンプのほとんどはいまだに真空管アンプだということも付け加えさせてください。

 今年やっと、自分で「はんだごて」を握り、当時のコンデンサーや線材、部品を探して同モデルのアンプのオーバーホールに挑戦しました。慣れないはんだ付けはなかなかうまくいきませんでしたが、休日の試行錯誤の後、やっと納得できる40年前のあの時の音の記憶に近づけたような気がします。

   2016年04月19日
    採用、教育、活性化、採用、教育、活性化、
    採用教育活性化…

 事業を発展させるためには「採用、教育、活性化(SKK))」だと、会社を興したばかりの若い20代の経営者がこの3つの単語を呪文のように繰り返し唱えながら通勤している姿を見たことがあります。私も常日頃心がけていますが最近気になっている新しい取り組みにつながるかもしれない話題をいくつか提供させていただきます。

baby 採用について

 前回の投稿「'人間なんてラララ'」で幸福感について書きました。欧州で開発さ れた、ある適正テストの項目で、幸福感が他の項目と比べて低い場合は、「その人を絶対に採用してはいけない」と強いアドバイスを受けたことがあります。他社の適性テストにおける同様の項目は'考え方'ということだそうです。

試しにその有料の適性検査を私自身が受験して診断してもらったところ幸福感(考え方)は私の自覚通り、平均よりすこし高い値が出ました。

大学生との懇談会に参加したことがありますが、就職活動のアドバイスとして、「まず自分自身が人生に幸福感を持たなければ就職は難しいはずだよ」と伝えたら大学生は驚いていました。

NHKでも紹介されていましたが、採用活動を学問として研究している大学の先生の取り組みに、私は大いに興味を持っています。その先生は、現在のオーディション型の採用活動では中小企業で必要としている人財は採用できないということであたらしい採用の形を提案しています。

http://saiyougaku.org/

baby 教育について

 日本の製造業は欧米と比べて教育にお金をかけていないとも聞いたことがあります。欧米では売り上げの10%は教育コストにかけているとのことです。単純に考えれば全社員が週に半日近くを教育、訓練をする時間にあてていることになります。

企業ごとの体系的な教育マニュアルやオンライン学習システムを維持できているところはまだ少ないようです。

大学でよく活用されているオープンソースの学習過程管理ソフト'Moodle'を企業も活用すべきだと考えていますが、コンテンツ整備や試験問題の更新は部門横断的な専門部隊を持たない限り実現は難しいと実感しています。

https://moodle.org/

baby 活性化について

 今年の干支にちなんだわけではありませんが、先日、「人間関係に必要な知恵はすべて類人猿に学んだ」という書籍を購入しました。TVでも話題になったようですが、との時は残念ながら見逃していました。

広島県福山市にあるスーパーマーケットの会社がこの類人猿分類によるコミュニケーション能力向上の学習を取り入れて業績を伸ばしているそうです。

DNA比較でも98%近くが人間と同等の彼ら(チンパンジー、オランウータン、 ゴリラ、ボノボ)ですが、その気質は大きく違うそうです。彼らは動物園でも野生の環境でも決して同じ群れのなかで暮らすことはできませんが、人間社会では気質が大きく違う動物が同じ檻の中で生活しているのと同じですから、お互いを十分認識、尊重しない限り共生はできないはずだという仮説です。

すなわち自己診断して自分がどの種族の類人猿に近いかを認識し、またほかのタイプの気質を学習して適切な言葉や態度を向けられるように 訓練するとチームは活性化するはずだということです。

人間も所詮は一類人猿種族であり、彼らと同等の動物であるという謙虚さを学べているように思います。3分でできる診断サイトで判断してもらうと、私はオランウータンでした。職人気質で一人でいることを好むそうです。

当たっていると思います。下記が診断サイトです。

http://yakan-hiko.com/gather/

   2016年02月02日 人間なんて ラララ~ラララララ~

何気なく見ていたTVで北アフリカの山奥に生息するバーバリーマリクという日本猿によく似た猿の生態を紹介していました。オスが群れのなかの地位を確保するために群れに居る不特定の赤ちゃんや子供の子守を積極的に行っており、群れのメスに認められることによって、交尾が可能になり子孫を残すことができるという内容です。ほかの猿の種と比べても平和的で秩序よいグループ生活をしているとのことです。
それを見ていると不思議に突然タイトルの‘人間なんて ラララ~’のメロディーが頭の中をよぎり離れなくなりました。たしか吉田拓郎の古い歌だったと思い早速YouTubeで再確認しました。

人間とは何物かという生物学的分類定義は18世紀から続いているようです。‘ホモサピエンス’とはリンネというスウェーデンの生物学者が初めて提唱した定義で「知恵のある生物」ということらしいのですが、イルカやチンパンジーにも少なからず多少の知恵はありますから、フランスやアメリカの哲学者たちが唱えた‘ホモファーベル’「道具をつくる生物」という定義が的を射ているように思われます。でもそれだけではあまりにも物質的だなと感じるのは私だけではないでしょう。‘ホモルーデンス’いわゆる「遊びのある生物」という説はオランダの歴史学者のホイジンガが唱えています。
なるほど遊びという定義は文化一般から伝統、アートを楽しむことまで含めているので道具を作るだけの生物よりも納得出来る気がします。

 紀元前600年頃に活躍していたギリシャ哲学の始祖(プラトンやソクラテスの大先輩)と言われているタレスは‘自分自身を知ることが人生で最も難しい’と言っていたらしいのです。リンネはまた「知恵のある(サピエンス)生物(ホモ)」の定義のサピエンスの意味を‘自分自身を記述することができる’とも説明しているので私はこれらの3つの定義にも大いに賛同したいと思います。
 しかしながら私が現在最も支持する基本的な考え方は、この世に生まれたこと自体が奇跡的でありこの美しい自然の中で生かされていることに幸福感を感じ感謝の気持ちを持っているからこそ、共に生かされている生物のために何かをしてあげたいという気持ちを常に心の底辺に保ち続けている生物という仏教的な思想です。

Sapience

アメリカ先住民のナバホ族に古くから伝わる「Walk in Beauty」という祈りの言葉があります。『目の前に、頭上にも、後ろにも自分の回りは美に包まれている、だから毎日歩き続けられる』とそして「私の歩みは美のなかで終わる」いう内容です。

 常日頃美しい自然を見ることのできない都会人は人為的なものであってもアートの中に安らぎや感動を求めているのかもしれません。
これを道具として仕事(道具をつくる)に活用するにせよ芸術(アート)を鑑賞するにせよ人間たるものバランスよく幸福感を多く持ち続けられる時間を大切にしたいとつくづく感じずにはいられません。

   2015年07月16日 軍艦島の思い出

最近テレビでよく軍艦島の画像が流れてきています。

最初のころは知り合いの方からも何度か電話をいただき、親切にも「いまTVをこのチャンネルでつけると 軍艦島の映像が見れるよ」とアドバイスしてくれましたが、いまはそう珍しいこ とでもありませんから誰も教えてくれることもなくなりました。

私が隣の島の高島というところで生まれ、中学生まで生活していたことを知っている方達ですが、私の正直な気持ちを知っている方は少ないと思います。 いまの軍艦島の画像を見ても、うれしい気持ちよりも物悲しい気持ちでいっぱいになるのと、なぜか悔しい気持ちになるのです。

当時の軍艦島には6000人近い人口と本島である高島にも2万3000人が住んでおり、近代的なアパートが立ち並ぶ活気ある町でした。
軍艦島(本当の名前は端島 ハシマ)の中学生は長髪が許されており、高島の中学生よりも都会的でセンスのある学生のように見えて羨ましがられたものです。 夜になると、煌煌と無数の明かりが灯る大きな戦艦の形をした客船のようで、夕日が沈むと同時に深夜まで暖かい生活を感じさせる美しい街でした。
しかし台風のときはとても心配でした。30棟以上あるアパートと海があまりにも近いために、波しぶきが直接アパートの窓をたたき割るくらいの勢いでした。
高島もそうですが、いつもは青い海と遠くに見える五島列島や近くの野母崎半島、三ツ瀬、中之島などの島影など、風光明媚な場所で多くの仲間たちが一緒に生活していたわけです。
ですからいまの変わり果てた軍艦島の姿はあまりにも当時と違う空気でさみしい気持ちになってしまうというわけです。なぜ悔しいかというと、高島にも多くのアパートが立ち並んでいたのですが、そのほとんどがきれいに取り壊され、軍艦島のように当時の姿を残している建物がないからです。

軍艦島の姿を当時のままに残すことはもともと難しいことだと思いますし、これからももっと厳しい状況になると思いますが、そのことを伝えることにはもともと無理があると思います。
軍艦島だけでなく、他の多くの産業に依存していた町は、多かれ少なかれ同じような運命をたどるということも受け入れながら......。

※当時の軍艦島の様子はこちらから
http://www1.cncm.ne.jp/~m8512215/hasima/index.html

   2015年05月21日 地名の不思議

新しいお客様を訪ねる時に興味深いのは、町の名前や交差点の名前です。
タクシーの運転手さんに、「この地名はなんと発音するのか」などとつい尋ねてしまいます。

古い地名は「言葉の化石」だとも言われています。漢字に囚われず発音から推測すると同じ言葉がかなり広い範囲で使われているのではないでしょうか?
『日田』と『飛騨』、『山戸』と『大和』、『熊』と『駒』、『伊東』と『江戸』、『阿蘇』と『麻生』など比べていくと多く見つかりそうです。

梅原猛先生の書籍では、縄文語は大和言葉と言われるものの由来と関係があると書かれていますが、いわゆる縄文語とはどんな言葉であったのかは、まだまだ研究されていない分野でもあり、とても意義深いものだと思います。
アイヌ語や琉球語や古代百済語などから推測されるのか、もっと広くマレー語、タガログ語からエスキモーやアメリカインディアン、パタゴニアの原住民などの先住民語も対象になるかもしれません。

ちなみに私は念願のアイヌ語⇒日本語の辞書を手に入れ、その地名がどんな意味であるのかをこじつけることができるようになり自己満足しています。

【参考文献】
梅原猛(1994)『日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る』 集英社文庫.
大友幸男(1995)『日本縦断アイヌ語地名散歩』 三一書房.

   2014年07月28日 広島事業所開所への思い

2年前から広島への出張が多くなりました。
お陰様で広島エリアのお客様に弊社パッケージを導入してもらう機会が増えてきたからです。
出張だけではサービス性が悪いと思い今月から広島事業所を開設しました。

これまで 大阪、東京、九州にありましたがまさか広島に事業所を持つことは創業当初から最近まで想像もしていませんでした。
長崎で生まれ育った私にとって広島はなぜか近寄りがたい街でもありました。

小学生4年生の時に初めて訪れた長崎の原爆記念館での衝撃なのか、長崎の被害よりも大きかった土地への畏れが足を遠退かせていたかもしれません。

3年前に著名な製造業コンサルタントの先生の紹介でマツダさんにパッケージ機能説明させていただいたことが始まりでした。

もともと10数年前に福山での食品業様への導入経験がありましたがそれ以来でした。

広島の風景、食べ物、日本酒、県民性など失われた日本の美意識や謙虚さまたプロ意識の高い産業の街だと再認識しています。

個人的にもゆっくり旅行したい街でもあります。

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   2013年12月11日 45年ぶりの手紙

中学生時代の仲間から、突然、便りをもらいました。
手紙には、近況と当時の同級生の名簿が同封されており、次々に当時の仲間の顔が浮かび上がってきました。とてもありがたいうれしい便りです。

最近、長崎の廃墟となった軍艦島こと端島がTVでよく放映されますが、本島である隣の高島の姿をみかけると懐かしさで胸が一杯になっていました。炭鉱で活気の有った時代の、忘れがたい多くの記憶がいまも鮮やかに蘇ります。周囲6Kmの小さな島には川や沼もありません。2万人以上の人口のほとんどが炭鉱関係従事者ですから、街全体がひとつの大きな家族のような雰囲気を持っていました。
一学年11クラス、一クラス50人以上が詰め込まれていたと思います。社宅には風呂も電話もありませんでしたが、近所に配置された大型共同浴場を無料で利用していました。
中学3年生は試験勉強に明け暮れましたが、駅伝部に所属して島の3Kmの周回道路を毎日走っていました。アパートばかりの島でしたが、島のどこにいても海が見える環境は恵まれていたとも言えます。

私が最も充実した時間を過ごせたと感じるのは、この高島での中学時代だったかもしれません。

しかし、45年前、炭鉱の町は石油化に押され構造不況となり、否応無しのリストラが始まろうとしてとしていました。労働組合は毎日のように街宣カーを走らせ、アパートの林のなかで炭鉱の国有化を叫ぶばかり。早い時期に私の父親も肩叩きに合いましたが、当時はまだ手厚い再就職支援があり、関西の同じグループ会社の社員寮の住込み管理人として職を得て島を出ていきました。

大きな会社なればなるほど時代の変化に柔軟に対応ができないものだとつくづく思い知らされました。

   2013年09月29日 工場見学のすすめ

新入社員教育の一貫として浜松近辺の輸送機器メーカーと食品メーカーさんへ工場見学をお願いしています。私も何度か一緒に見学させてもらっています。丁寧な説明とアテンド、また記念品のプレゼントまでいただけます。広く工場見学を受け入れてくださる企業さんにはいつも感謝の念を禁じえません。

工場見学をするといつも再認識させられることがあります。工場レイアウト設計者の想い、ものづくりをしている方達の工夫改善の成果、作業中の品質作りこみへの真剣な姿勢など。
コスト削減、品質向上と環境改善を主眼に常に改変しようとする想いの最新成果を見せていただいていることにもなり、見学する側も気が引き締まります。

現場の動きや設備、在庫管理状況だけでなく、さらに興味をもつのはどのような計画に基づきどんな工程で実績報告をしているか、またその形態とタイミングです。段取替えのロスと低在庫水準の追求、それらのバランスを見ながら生産ロットサイズをどうしているかなどです。
生産ロットが大きすぎると作り側の人間性を否定されているような単純作業の連続になります。生産管理システムと現場の情報がどのように連携しているかでその工場の需要変化への対応力と将来の利益予測能力が想像されます。

日本のものづくり現場はもとより、最近では海外とくに東南アジアでの活動成果には驚かされます。15年ぶりに訪問したタイの輸送機器メーカーや自動車部品メーカーの工場では、日本の工場と比べても遜色ない、またはそれ以上に5Sが徹底されていました。現地の方たちと価値観を共有するためにはかなりのご苦労があったと思います。

これからも可能な限り工場見学に参加していきたいと思っています。

   2013年06月17日 80歳の同窓会

私の両親は二人とも熊本県阿蘇郡小国町の出身です。
最近、黒川温泉で有名になっている南小国町のとなり町です。

私にとってのふるさとは、すでに廃鉱となってしまって帰る家もない長崎県高島炭鉱(軍艦島の在った町)ではなく、むしろ山の奥深いところにある、この町です。
年に一回程度、父の墓参りを兼ねて叔父のいる母の実家を訪問していましたがいつもトンボ返りでした。

先月17年ぶりに3日間の休みを頂き、今年80歳になる要介護の母を浜松から連れ出して、中学校の同窓会に付き添って参加してきました。私自身も興味がありましたし母のいい思い出作りになると確信したからです。
170人の卒業生から今回参加された方々は36人でした。参加者はみなさん明るく陽気で矍鑠(かくしゃく)とされており、すでに亡くなられた方々も多かったのですが、元気に再会をとても喜んで居られました。私のようなコブ付きでの参加は、母を入れて二組だけでした。

好天気にも恵まれ、緑豊かな自然の中で笑顔の母と過ごせたこと、これまで会えなかった親戚にめぐり会えたことなど、多くの新鮮な時間を得ることができました。

次回は母が85歳のときに同窓会が計画されます。また参加できることを祈っています。

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   2013年05月09日 古本屋とアイヌ語

小学生の頃、よく父に長崎の街の古本屋に連れて行かれた思い出があります。
独特の古書の匂いと暗く陰気な雰囲気にいたたまれず、外で待っていたものです。父の口癖は、古本屋の主人になって一日中本の中で暮らしたい、という願望でしたが当時は全く理解できませんでした。

しかし、私も50代を過ぎた頃から時間を見つけて古本屋を覗くようになりました。思いがけず、興味深い情報に巡り会えます。
 ●国宝や美術関連図書
 ●レコード名盤解説本
 ●歴史、郷土史 など

小さな店内には店主の価値観で売れそうな多くの図書がとにかく山積みになっている訳ですから、興味がつきません。足が痛くなるまで立ち読みを続けます。疲れてくると何冊か財布と相談しながら購入しますが、1年以上買いたいと思いつつも先延ばしにしている本があります。

それが『アイヌ語辞典』です。

とても高価なので躊躇していますが、まだ売れ残っています。日本各地にある変わった地名の意味が知りたくて。また、縄文人はアイヌ人であったという説を裏付ける意味でも。

北海道の地名がアイヌ語から来ていることは周知のことだと思いますが、九州や四国などにも多く残されているいるようです。アイヌ人とエスキモー、アメリカ・インディアンの文法の構造が同じであることも想像力をかきたてます。

近い将来、多くの地名の意味を説明できるようになりたいと思っています。